レイテ派遣まで
平壌で再編・比島へ
ニューギニア戦において壊滅した第41連隊は1943年10月平壌へ帰還し、秋乙 にて部隊の再編を行う。主に中四国出身者(昭和17~19年兵)が連隊に組み込まれる。
1944年
5月7日 動員完結
5月8日 平壌を出発し、翌正午頃 釜山到着
5月10日 4:00 釜山出港/門司港を経由し佐伯港にて船団編成
5月13日 未明 佐伯 出港
5月18日 18:00 マニラ入港
5月21日 マニラ出港
5月23日 6:40 歩兵第41連隊主力はカガヤン港着
5月25日 第三大隊は第三十師団司令部と共にスリガオへ上陸
ミンダナオ島警備
ミンダナオ島へ上陸した歩兵第41連隊は、ミンダナオ島北部へ分散配置する。
■ 連隊主力(第二大隊,連隊砲中隊,通信隊)→カガヤン近辺
■ 第一大隊→ナシビット
■ 第三大隊→スリガオ周辺
■ 連隊砲中隊→デルモンテ近辺
レイテ島派遣
10月20日 米軍がレイテ島へ上陸
10月21日 軍からのレイテ出動命令に伴い、第一大隊,連隊砲中隊がカガヤンへ帰着
10月22~23日 兵器,弾薬,糧秣の補充および出発待機
(※ 弾薬は一会戦、食料は数日分のみ携行)
10月25日 軽巡洋艦 鬼怒, 駆逐艦 浦波および第6,9,10,101,102号輸送艦に分乗し、カガヤン発オルモックへ
レイテ派遣
連隊本部
連隊砲中隊
速射砲中隊
通信中隊
第一大隊
第二大隊
工兵第30連隊 1個小隊
第30師団衛生隊 1個小隊
軍通信隊 1個分隊
レイテ島での戦闘参加
レイテ島上陸
10月26日 夜明け オルモック上陸/2梯団となりオルモック街道を進む
目標「ハロ東方6km カビテ集落のマイニット川に架かる鉄橋を確保」
ハロ周辺で迎撃
10月29日 歩兵第41連隊より1個中隊, 機関銃1個小隊, 速射砲1個小隊、歩兵第33連隊の1個中隊をハロ東方に配置/第102師団隷下の独立歩兵第169大隊が戦闘参加
9:00 カビテ集落を出発した米第34連隊がハロ手前で銃撃・砲撃を受ける/17:00 米第34連隊がハロへ
10月30日 ハロ郊外にて北上する米第34連隊第三大隊を撃退/シャーマン戦車を速射砲で破壊
10月31日 戦車を先頭に米第34連隊が北上
11:30 ギナガン川=サン・アントニオの線にて渡河した米第34連隊を撃退 / 1時間に渡る砲撃の後、米軍部隊は渡河し前進
14:30 ヤパン川の線において迎撃/3時間に渡る戦闘の後、米軍部隊は後退し夜営
517高地への撤退
10月31日 夜 連隊長 炭谷鷹義 大佐はカリガラ平野を俯瞰できる要地、517高地への撤退を決定
オルモック上陸時 約2,500名の兵力が、ハロ周辺での戦闘にて半減する
※ 517高地への撤退に関して、「レイテ派遣 歩兵第四一連隊の記録」によると “トュンガ=カリガラ中間付近の小学校へ後退した連隊本部に集結 雨に紛れ517高地へ撤退” とあるが、「レイテ戦記」では “第41連隊主力は夜のうちにハロ西方3kmのサン・アントニオへ撤退” と記載されている。
米軍の評価
31日までハロ付近で激しい抵抗を見せた日本軍はカリガラへ撤退し、町の周囲に頑強な陣地を構築していると考えられた。またゲリラより2,000~3,000名の日本兵がいると報告されていた為、米軍は十分な砲撃の後11月2日 カリガラの町へ突入。しかし11月1日にカリガラを守備していた日本軍は撤退を行なっていた。
歩兵第41連隊の他 ハロ付近での激しい戦闘により米軍の判断を誤らせ、カリガラ進出を1日遅らせたことにより、第一師団の前進・リモン峠での迎撃準備に貴重な1日を与えた。
また、ハロ付近での対戦車戦闘は『レイテにおける最も効果的な速射砲射撃であった』と米戦史においても評価され、「Leyte – The Return to the Philippines」には、” 戦車の砲身内へ撃ち込まれ内部で爆発 “との記載もある。
脊梁山脈での戦闘
連隊の配置
11月6日 517高地へ撤退した連隊は、同じくカリガラ平野を守備した独立歩兵第169,171大隊および天兵大隊と共に第1師団指揮下に入る
11月17日 第102師団司令部がピナ山へ到着する
独立歩兵第169,171大隊は第102師団へ原隊復帰、天兵大隊は独歩171大隊へ合流、歩兵第41連隊は第102師団指揮下へ
この時歩兵第41連隊の配置は、連隊本部が517高地、第二大隊が517高地の南方716高地、第一大隊がピナ山
山中での戦い
517高地はカリガラ平野を俯瞰する要地であり、また平野部へ突出した位置にあり、11月下旬には716高地へ後退する / この時兵力約600名
11月10日 ピナ山=692高地の間にて機関銃を伴う強力な反撃
11月15日〜716高地の斜面に構築した塹壕群を活用し、米騎兵第12連隊の前進を阻止
11月28日 米騎兵第12連隊が716高地付近の日本軍に対し包囲攻撃 開始 / 同高地にて激しい抵抗を行う
11月29日 独立歩兵第364大隊が716高地奪回の為派遣される(12月1〜3日 大隊長 野尻興 大尉 戦死)
12月4日 米騎兵第12連隊第二大隊が716高地の日本兵を撃破
12月9日 米騎兵第12連隊が716高地=692高地の線を確保
レイテ戦記には “716高地には陣地が無く容易に敵の進出を許した” と記載されているが、平成二十四年 福山市議 太田祐介 氏の現地調査では、692高地や716高地にて多数の塹壕や装備が確認された。
福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書⑤ (福山市議会議員大田ゆうすけのブログ)
https://kkochan.exblog.jp/18286116/
ピナ山周辺は脊梁山脈の中でも非常に山深い部分であり、地の利を生かた陣地により、圧倒的戦力差がありながらも守りを固めていたと考えられる。
↓麓から望む517高地 恐らく右側のピークが517高地(Mt. Minoro)/左側のピークが692高地(Mt. Badian)
転進と自活戦闘
西海岸へ転進開始
12月7日 米軍のオルモック近郊への上陸、その後オルモック陥落
12月24日 第102師団第二梯団としてピナ山発
翌1月2日 マタゴブ到着(連隊兵力 約250名)
第102師団からミンダナオ島の第30師団への原隊復帰を命じられるが復帰困難 / 11日 第1師団転属となる
地号作戦
1月初旬 第35軍は部隊を島外へ移動させる「地号作戦」を計画
歩兵第41連隊は第1師団に続き2番目にレイテ島より脱し、ミンダナオ島の第30師団へ原隊復帰(困難な場合はボホール島又はネグロス島の交通拠点確保)が予定されていた。
1月15日 第1師団がセブ島へ転進に伴い、第1師団のレイテ島残留部隊の指揮を炭谷連隊長が任じられる / ティブル守備に就く
夜間にバリティの海岸にて転進用の舟艇を待つが、1月20日の第4回作戦以降の輸送は困難となった。
終焉
3月上旬 転進を断念しカンギポット山北方の台地へ移動
6月中旬 生存者 約80名
7月15日 連隊旗の捧焼、炭谷 連隊長以下玉砕した「連隊終焉の日」とされる(歩兵第41連隊の多くが7月15日一括戦死認定されている)
連隊総員3,510名のうち戦死2,906名
うちレイテ島へ派遣された連隊本部、第一・第二大隊は戦死2,213名(99.3%)となっている。
カンギポット山北方 A-Tumamak地区の街道沿いに「福山歩兵第41連隊の碑」が建立されています。
参考:
『戦史叢書 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦』防衛庁防衛研究所戦史室,株式会社 朝雲新聞社,1970
『レイテ戦記』大岡昇平,中央公論新社,2018
『第一師団レイテ戦記』第一師団レイテ会,1965
『永遠の四一 歩兵第四一連隊の足跡を訪ねて』太田祐介,株式会社 福山健康舎,2014
『Leyte : The Return to the Philippines』Hamlin Cannon, Center of Military History United States Army, 1993
部隊履歴TOP >レイテ島の戦い>第30師団>歩兵第41連隊
ご不明な点・誤り等ございましたら下記コメント欄にお寄せ下さい。日々アップデート致します。