フィリピン・日本戦没者合同慰霊碑

第二次世界大戦のレイテ戦は、比類無き激戦地であり、日比双方の兵士は大義のために身を挺し、多くの犠牲者を出しました。西海岸山岳地周辺の日本軍兵士は、弾尽き、食なく、病魔に倒れ、万斛の涙の中ひたすら望郷の怨念に、待つものは死以外のものは、ありませんでした。
ここに諸霊の冥福を祈り、日比合同の鎮魂の碑を建て、再びこの非を繰り返さない事を誓います。

1995年7月1日 発起人代表 戦友 永田勝美  遺族 青木和子

慰霊碑敷地の入り口

日比合同慰霊碑の由来

第二次世界大戦におけるレイテ戦は、比類無き激戦であり、日比双方の兵士は大儀のために身を挺し、多くの犠牲をだしました、西海岸山岳周辺の日本軍兵士は、弾尽き、食無く、病魔に倒れ、ひたすら望郷思念に、待つものは死以外のものはありませんでいた。

この慰霊碑は多くの諸霊の冥福を祈るとともに、再びこの非を繰り返さないことを誓って、当会会長永田勝美さんと、かつて敵と味方で戦った、当地戦友会の方々が協力し、多くの遺族や戦友の方々の浄財によって1995年7月に建設されたものです。

慰霊碑は丘の上に建てられている
階段を上ると正面に慰霊碑

慰霊碑のそばに慰霊堂があり、線香を持参すればこちらで上げることができます。

普段は施錠されているので、管理人のロレータ・バレンテさんに鍵をお借りする、または解錠してもらいます。バレンテさんのお宅は階段下、道路向かいにあるので、分からない時は近くの人に尋ねるのが良いでしょう。

日比合同慰霊碑建立の由来

緑豊かで静寂なレイテ島。この島は1944年10月20日、アメリカ軍の上陸作戦開始と共に、日米決戦の激戦地路なり、1945年8月の終戦まで修羅の島と化し、日本軍将兵八万人とレイテ島の住民に多大なる犠牲者を生み、太平洋戦争の中でも有数の悲劇の地となりました。
1994年の秋に、レイテ島在郷軍人会の皆様と相談して、戦後50年を契機に日比両国戦争犠牲者の鎮魂と永遠の平和を誓う記念碑建立の運びとなりました。建立にさいしては、遺族、戦友のご支援とレイテ島の住民の暖かいご理解とご支援により、ここバリティの丘に日比両国の戦争犠牲者慰霊碑を建立し、日比両国の永遠の信頼と友情の絆となり、日比両国の有効を確立し、両国の繁栄と幸福を祈ってやみません。

1955年7月1日
日比合同慰霊碑建設委員会一同
顧問 元日本国内閣総理大臣 中曽根康弘

丘の上からは海が綺麗に見えます。
この海を渡ってセブへ撤退できた人は全体の数%でした。

船に乗れ撤退できた人、撤退できずレイテで玉砕を決意した人

それぞれ、どんな気持ちだったのだろうか。


所在:ビリヤバ, バランガイ・バリテ/Villaba, Brgy.Balite (座標:11°11’53.6″N 124°23’06.9″E)


【 行き方 】

タクロバンから →Tacloban New Transport Terminalからビリヤバ/Villaba行きのバンに乗車

参考:タクロバンからレイテ各地へのバス

オルモックから →Ormoc Transport Terminalからビリヤバ/Villaba行きのバス・バンに乗車

参考:オルモックからレイテ各地へのバス

終点 ビリヤバの乗り場


その後、終点のバス・バン乗り場で下車します(下地図)。

終点の乗り場から、バイクタクシーまたはトライシクルで、バランガイ・バリテにある慰霊碑まで向かいます。
左側(海の反対側)にある壁に描かれたフィリピンの国旗が目印です。

【 ビリヤバから戻る際は… 】

ビリヤバからタクロバンやオルモックへ戻る際に、目的地でない方のバンが待機していた場合、
そのバンでリボンガオ(カナンガ)まで向かい、そこでタクロバン-オルモック間のバンやバスに乗り換えると待ち時間が少なくなります(料金は少し高くなります)。


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行き方の説明の中で不明な点がありましたら、コメント欄もしくはinfo@japan-warmemorial.comまでご連絡ください。