比島派遣の決定
1944年
7月 7日 河南作戦実行中に帰還命令
7月16日 第14方面軍への編入が決定する
7月22日 連隊は3梯団に分かれ、蒙疆(内蒙古)の厚和(現:フフホト市)より列車で満支国境を南下
7月28日 釜山に集結し乗船訓練・対潜訓練を実施
8月7日 乗船区分が決定
● 玉津丸(たまつまる):連隊本部, 歩兵砲隊, 通信中隊, 第2大隊 など
● 香椎丸(かしいまる):第3大隊, 第1機関銃中隊 など
● 越海丸(えっかいまる):第1大隊主力, 独立歩兵第11連隊の一部
朝鮮半島から比島へ
玉津丸・香椎丸
8月 8日 06:00 釜山港出港/17:00 佐賀県伊万里港へ入港・ヒ71船団と合流
8月10日 05:00 伊万里港出港, 一路マニラへ
8月16日 台風を避けるため台湾澎湖島馬公へ寄港
8月17日 馬公を出発
8月19日 04:50 ルソン島沖にて米潜水艦スペードフィッシュの雷撃により玉津丸撃沈・連隊本部,第2大隊など海没(乗員4,820名のうち4,755名戦死)
8月23日 香椎丸 マニラ入港
8月27日 タルラク州サンミゲルへ進駐・演習
【ヒ71船団の編成】
輸送船(将兵35,000名, 軍属など2,600名)
速吸, 旭東丸, 帝洋丸, あづさ丸, 二洋丸, 第2八紘丸, 瑞鳳丸, 永洋丸, 吉備津丸, 玉津丸, 摩耶山丸, 阿波丸, 帝亜丸, 能代丸, 能登丸, 香椎丸, 日昌丸, 北海丸, 鴨緑丸, 伊良湖
護衛艦艇(*:馬公出発時に編入)
空母1隻:大鷹
駆逐艦3隻:藤波, 夕凪,朝風*
海防艦隻9隻:倉橋, 平戸, 御蔵, 昭南, 第11号海防艦, 択捉*, 松輪*, 佐渡*, 日振*
(赤:披雷によりバシー海峡周辺海域で沈没/青:被雷により損傷)
越海丸
8月12日 釜山出港・下関へ寄港し船団編成
8月16日 下関出港:輸送船20数隻, 護衛艦艇8隻
8月22日 台湾高雄へ寄港
8月27日 ルソン島北サンフェルナンドに上陸、陸路で連隊主力へ合流
9月17日 南方軍報道部長 斎藤二郎 大佐が連隊長に着任
海没した連隊本部および第2大隊は、独立歩兵第11,12連隊より抽出された兵により再編成される。
比島転進前後の部隊長
隊号 | 比島転進前 | 比島派遣時 | |
連隊長 | 安尾 正綱 (大佐) | 海没 | 斎藤 二郎(大佐) |
通信隊長 | 恒川 嘉明(中尉) | 海没 | 片桐 茂(中尉) |
歩兵砲隊長 | 土橋 孝幸(中尉) | 海没 | 尾崎 元彦(大尉) |
連隊行李長 | 山田 仁八(中尉) | 海没 | 米谷 信夫(中尉) |
第一大隊長 | 斉藤 勇二(少佐) | ||
第一中隊長 | 友田 武雄(中尉) | ||
第二中隊長 | 八木 俊雄(中尉) | ||
第三中隊 | 村上 忠明(大尉) | 二村 茂夫(中尉) | |
第四中隊 | 日内地 照雄(中尉) | ||
第一機関銃中隊長 | 佐方 実郎(中尉) | ||
第二大隊長 | 原井 義敏(大尉) | 海没 | 栗栖 逸吾(大尉) |
第五中隊長 | 山下 雷吾(中尉) | 海没 | 有泉 正行(大尉) |
第六中隊長 | 鈴木 教介(大尉) | 海没 | 斎藤 (中尉) |
第七中隊長 | 太田 満州男(中尉) | 海没 | 村松 八郎(中尉) |
第八中隊長 | 大木 昇(中尉) | ||
第二機関銃中隊長 | 土井 忠臣(大尉) | 海没 | 酒井 敏彦(中尉) |
第三大隊長 | 重松 勲次(少佐) | ||
第九中隊長 | 大浜 松吉(中尉) | 鈴木 嘉明(中尉) | |
第十中隊長 | 伊故海 正男(中尉) | ||
第十一中隊長 | 堤 茂樹(中尉) | ||
第十二中隊長 | 山本 利博(中尉) | ||
第三機関銃中隊長 | 酒見 甚助(大尉) | 大浜 松吉(中尉) |
海没:ルソン島沖にて被雷し海没
ルソン島からレイテ島へ
10月26日 第26師団にレイテ島派遣の命令が下る
10月30日まで 軍装検査を終える
10月31日から11月9日までの間、第26師団および独立歩兵第13連隊 諸部隊はマニラを出発しレイテ島・オルモックを目指すが、その道中や上陸時に米軍機の空襲を受け大きな被害を受ける。
編集注:レイテ輸送の乗船区分及び経過について書籍によって記述が異なる場面が多く、誤りがある際はお知らせ頂けると助かります。
機帆船第3・第4郡
10月31日 第一大隊800名、他 は機帆船8~10隻に分乗しマニラ発(機帆船第3郡)
11月 1日 第二大隊800名、輜重兵第26連隊の一部200名、他 は機帆船に分乗しマニラ発(機帆船第4郡)
※ 機帆船第3郡および第4郡は道中、マスバテ島へ座礁や機材の故障、米艦載機の攻撃を受け脱落者を出しながらオルモックへ向かう
※ 何とかセブ島へ到達したもののその後前進できなかったケースもある(第一機関銃中隊、第二中隊の1個小隊など)
11月13日 オルモック湾で米艦載機の攻撃を受け、船舶部隊により遭難者の救助が行われる
多号第4・第3輸送
11月8~9日 独立歩兵第13連隊の残部は第26師団主力と共にマニラ出港
(編集注:正確な乗船区分は把握していないが、連隊主力1400名は、第3次輸送 「泰山丸」に乗船との掲載もある)
11月9日 夕刻 先発の多号第4次輸送の船団がイピル到着、第26師団主力および第1師団の後発部隊が上陸開始
※ 米艦載機の攻撃や直前の台風により上陸に用いる大発の多くが使用不可、船舶工兵部隊の大発5隻に加え海防艦4隻を使用し揚陸を進める
11月10日 第26師団は午前7時までに人員約7,000名上陸。野砲やトラック・弾薬・糧秣は揚陸困難である事に加え、船団に対する空襲を警戒し、人員の上陸が完了した10:30 船団はマニラに向けイピルを発つ
(「金華山丸」に積載した火砲・車両等の大部分を揚陸できたが、「香椎丸」「高津丸」は一部のみ揚陸)
11月11日 正午頃 多号第3次輸送の船団がオルモック湾北西に達したが、米艦載機344機の大編隊の空襲を受け「泰山丸」「三笠山丸」「西豊丸」「天照丸」撃沈、生存者は付近の浜へ泳ぎ着く、「和興号」は最寄りの海岸へ擱座上陸
レイテ島へ至る道中および上陸時の空襲により第26師団全体でも大きな被害を出し、独立歩兵第11連隊では第二大隊 小笠久雄 少佐、第5・第6中隊長以下 上陸時に戦死した。また大発の不足や米軍機の攻撃により、装備の大部分を揚陸できなかった。
レイテ戦へ続く…
部隊履歴TOP >第26師団 >独立歩兵第13連隊
●独立歩兵第13連隊(泉5316) .1 – レイテまで ←本記事
●独立歩兵第13連隊(泉5316) .2 -アルブエラ方面(斎藤支隊)
●独立歩兵第13連隊(泉5316) .3 -ブラウエン斬込み(重松大隊)
※ 誤りなどございましたらお知らせください。
ご不明な点がありましたら下記コメント欄にお寄せ下さい。日々アップデート致します。
第26師団(泉兵団)傘下の泉5316部隊(独歩第13聯隊)第3大隊の遺族(長男)です
レイテ島シラドで 自決した父の遺言により戦後 部隊戦没将兵の慰霊活動をしております
活動通じて レイテ戦史関連の書籍は 600冊蔵書(私家版を含む)収集
過去テレビ出演 読売新聞 中日新聞 東京新聞 週刊文春に登場しました
バシー海峡で海没した玉津丸の悲劇は 作家 門田隆将先生の「慟哭の海峡」でご承知かと思いますが 当時ご健在であった 中嶋秀次さんを紹介し 資料を提供したのは私です
レイテ決戦の 資料 知識はありますので 皆さんの前で語り部として活動もしてきました
父が属した部隊のことを 取り上げていただき 心から感謝申し上げます
昨日投稿の追記です
昨年 開催された4回目の(潮音寺)バシー海峡戦没者慰霊祭に出席されたのですね
当日出席されたs氏からビデオ頂いています
私は5年前の第1回に出席 来賓の方が多く 5分間のみ玉津丸の悲劇を語りました。
その埋め合わせに続編として翌々日の市内観光のバス2台(移乗)し玉津丸語りの時間を頂きました。
第1回目の 出席者200名 内150名には玉津丸関連(50p)の資料を配布しています。
尚 玉津丸乗船の遺族とは(独歩13聯隊を除く)20名程と親交があり 会合もしています
重松正一 様
当ウェブサイト管理者の山上と申します。コメントを頂き、ありがとうございます。
もしかしますと、第三大隊 重松大隊長の御遺族でいらっしゃいますか?
私は2016年よりレイテ島内の慰霊碑を訪れ、泉兵団について調べていた時に初めてバシー海峡と玉津丸の悲劇について知り、昨年開催されたバシー海峡戦没者慰霊祭へ参加する事に至りました。中嶋秀次さんにつきましても、潮音時の建立に尽力された方と知りました。
慰霊碑を訪問する以外にも、いづれはレイテ戦に投入された部隊の軌跡を、実際に歩いて追ってみたいと考え調べており、また、ご遺族が慰霊に訪れる際の参考となればと思い、部隊についての記事を書き始めた次第です。間違いがありましたら、ご指摘頂けると幸いです。
レイテ戦についてお話されている事に、とても興味があります。
コロナウイルスが流行している現在は難しいと思いますが、流行が収まった後、講演会でお話される際には、ぜひ拝聴したく存じます。
私は講演など 機会があれば皆さんに申し上げていますが、レイテ決戦の生還者は一般的に 3%と言われておりますが、実際は1%以下の生還者です
例を申し上げますと第26師団は620名生還となっていますが(大岡昇平のレイテ戦記等)
実際は27名(一説には21名)です。多号作戦で(第一次から第9次まで)輸送船にて航送途中
夜間の航送で暗礁に乗り上げたり 米機の攻撃で海没し近くの孤島に漂着上陸、独歩13聯隊では佐方中尉 二村中尉はマスバテ島⇒セブ島で終戦を迎えました。サマール島、マスバテ島
セブ島等 米軍は以上の島にも上陸し戦闘をしていますが レイテみたいなことは無く泉師団では係る方が500名超存在します。
どうぞ 今後メールにて書き込みしたいと思います
メール名を知らせてください
重松様
大叔父(本籍地:大阪)の兵籍簿を大阪府から取り寄せましたところ、所属が「泉五三一六部隊」となっており、泉5316部隊について調べる中で、このURLに辿り着きました。
兵籍簿によると、大叔父(当時26才)は国民服役の工兵(二等兵)で、昭和19年の7月10日に、工兵第44連隊及び工兵4連隊補充隊に臨時動員され、同日総司令部に転属/第二中隊に編入、その後、8月10日に、南方軍司令部に転属のため屯営出発しています。なお、死亡場所は「比島レイテ島アルベラ」、死亡年月日は「昭和19年12月20日」となっています。
このような場合でも、比島に向かって乗船した船や、ルソン島からレイテ島への移動手段や経路、現地における所属部隊の特定などはできるものでしょうか?静岡県出身者で編成とされる部隊に所属するようになった経緯や、比島に上陸してから死亡に至るまでの経緯なども含めて不明事項が多く、これらを知り得る手段(記録や資料等)の有無について、参考コメントをいただけましたら幸甚です。
大塩様
暫く 本プログを 検索していませんで 大変遅くなり失礼しました。
玉津丸海没後 マニラにおいて レイテ決戦に参戦のため 第2大隊が再編成され 当時マニラ市内に駐屯していた各部隊の 中から 独歩第13聯隊へ編入されています。再編の第2大隊は第3次多号作戦で 11月8日前後 小型輸送船(中には漁船もあったようです)マニラ出港
オルモック港には11日以降に着 以降斎藤支隊傘下の部隊として バイバイ経由 北進の米軍とアルベラ地域で死闘(大岡昇平のレイテ戦記では ダムランの戦いとして記述)玉砕
独歩13聯隊将兵は 19・12・20戦死の一括認定です
どうぞ私 作成のHP http://hohei13.sakura.ne.jp/にメール名も明示しており
直接 連絡ください
ブログ主様、素晴らしく価値のある記録を拝謁させていただきました。
誠にありがとうございます。
私の祖父も死亡告知書によりますと大塩様のご親族同様、泉5316部隊で
昭和19年12月20日、比島レイテ島アルベラにて死亡と記載されておりました。
これ以上の事をながらく調べぬまま無為に過ごしていましたが、皆様のご意見
を拝見し、これを機に自分なりに祖父の道たどっていこうと思います。
高須 様
コメントをありがとうございます、当ブログ管理者の山上と申します。是非とも御祖父様の軌跡を辿ってみてください。グーグルマップにレイテ島の地名を記録しておりますので、よろしければご参考ください( https://www.google.com/maps/d/u/3/edit?mid=1SskvLIUjxRr9EyJN4UY8jYGynmzyZ_BR&usp=sharing )。
冊子の執筆に時間を取られ肝心のレイテ島での経過を未だに掲載できておりませんが、執筆がひと段落着きましたら、続きを掲載してまいります。