クリスマス・ニューイヤーといった一大イベントも終わり落ち着いてきたので、慰霊碑巡りへ向かいます。
この日はタクロバンから日帰りで訪れることが可能な、東海岸のドュラグとブラウエンの慰霊碑へ。
同じみとなったバスターミナル(Tacloban New Transport Terminal)。ここでブラウエン行きのバスに乗車します。
※2018.12時点でブラウエン行きのバスはMalasbalas地区のTacloban Transport Terminalに移転しました
バスターミナルから道路を挟んで向かい側には、先月14日にオープンしたばかりの、ロビンソンという比較的高級なショッピングモールがあります(タクロバンでは2店舗目です)。旅行で必要な物は大抵手に入る上、レストランもあるのでとても便利です!
スナックや飲み物はバスターミナルの売店にも売っているので、利用せずとも大丈夫ですが。
さて、ブラウエン行きのバスは通常、上の地図のようにパロを通過し、タナウアンから内陸の町ダガミを経由して向かいます。
ダガミの町中やダガミ-ブラウエン間の街道沿いにある慰霊碑へも、同じバスを利用します。このルートのバスがあり便利です。
タクロバンを出発してから1時間半程で、ブラウエンのプロパーからすぐ北の、バランガイ・マグフバスにある3ヶ所の慰霊碑に着きました(この3ヶ所は徒歩数分圏内にまとまってあります)。
1. 平和の碑 静岡県知事
この日は前回の訪問時とほとんど変わりありませんでした。
変わっていたのは、慰霊団が訪れる度に増えている石碑です。最近では9月に来ていたようです。
2.平和の塔
“平和の碑”より徒歩3分程度の、街道から50Mの位置にあります。
ここは前回よりも汚れが目立つ気がします。前回は付近に住む日本人のメッセージが書かれた掲示板があったのですが、確認できませんでした。台風で無くなったのか、撤去したのか。
3. 第一一四飛行場大隊終焉之地
マグフバス小学校の校庭にある木製の慰霊碑です。
台風の影響か腐食によるものか不明ですが、根元から傾いています。慰霊碑にも寿命があり、いつか無くなると言うことを実感します。
慰霊碑はいわば、この地で亡くなった方々の墓標のようだと思っているので、慰霊碑を維持していきたいと強く思います。しかし管理が行き届かず放置された慰霊碑は、現地の方々にとっては邪魔な存在になります。
土地をどう使わせて貰っているのかなど、もっと詳しく知りたい。
今回の慰霊碑巡りも、また違った思いに耽りそうです。
マグフバスを後にしブラウエンの中心部へ。丁度お昼の時間なので、ブラウエンで軽く昼食を取ることに。
田舎町ですので、タクロバンに比べ外国人が気軽に立ち寄るカフェやレストランは見当たらず、あるのはカンティーン(大衆食堂)やパン屋ぐらいでした。
パン屋で、パンとシューパオという肉饅を頂く。
タクロバンではシューパオを販売しているお店が多く、パン屋やファストフード店、ショッピングモールのフードコートなどで目にします。値段は少し高めで、パン1つ5ペソ(約12円)、肉まん1つ25ペソ(約60円)でした。
さて、お昼を済ませ慰霊碑探しへ。
第二十六師団の慰霊碑を探すべく、バユグ飛行場があったとされる場所へ。雨季で泥濘みの道を進みます。
飛行場跡は現在、このように田んぼ、ココナッツやバナナの木に覆われています。
前回の場所よりも奥にあると予想し、上地図の範囲を散策しました。しかしこの土地に住む人にも分からないと言われ、ここでは無いのかと思います。
以前町役場で聞き込みをした時は、学校裏のこの路地を進むと聞いていましたが…
飛行場跡の慰霊碑探しを諦め、ドュラグへ向かいました。
ドゥラグの町の手前には、現地の方々によって建てられたCAPT. ISAO YAMAZOE SHRINEがあります。
陸軍大尉 山添勇夫氏は日本軍がレイテ島に進駐していた際の、ドゥラグの守備隊長でした。公平に、そして友好な関わりがあった為、現地の人達から慕われていましたが、山添氏はアメリカ軍の上陸以前に、ゲリラとの戦闘で戦死しました。
そして戦後、地元住民の方々の手でこの神社が建立されました。
時期によっては苗木に花が咲いています。
レイテ島はフィリピン人ゲリラ活動が活発で、多くの戦闘員や戦闘員と疑われた民間人が殺されました。その為、フィリピンの中でも反日感情の高い場所とされています。
そういった事件の中にある、ほんの一部の美談としてではありますが、
良い関係を構築していた人がいる事もまた事実です。
レイテ戦に限らず、記録・事実に基づいて多方面からお話しできればと思います。
CAPT. ISAO YAMAZOE SHRINEからドュラグ中心部、そして海岸へ。
住宅街の中に”メモリアルパーク” という場所があります。
ここはアメリカ軍が上陸した場所の一つで、日本の慰霊碑の他戦死したアメリカ兵やフィリピン人の慰霊碑もあります。
現在は地元の人たちの憩いの場所となっていて、丁度放課後の時間に訪れた為子ども達がたくさん遊んでいました。
一部の子ども達が「アニョハセヨー」と挨拶してきたので、それ違う韓国語や!とツッコむと周りの子ども達が大笑い。今は平和な場所です。
ここで戦争があったなんて想像できません。
でもあったんですね。
年配の人とお酒を飲む時には、戦争の話題になることがあります。親戚や友人の家族が殺された人もいます。
親や祖父の世代の家族が殺されたとの話もあります。だから日本人は悪い奴と思っていたけど、台風ヨランダの時に助けてくれたし、こうして一緒に酒を飲んでていい奴だってわかる。
と言ってくれました。
過去の出来事は忘れず、今できることで貢献していく。
償いではなく共に楽しく、幸せになる活動が彼らとの繋がり方になるのではと感じます。
なので、今後もフィリピンに来て、現地の仲間と一緒に年に1回のボランティアを続けていこうと思います。