慰霊碑の建立された北スリガオ高校にはかつて第30師団歩兵第41連隊第3大隊の本部が置かれており、大勢の陸軍海軍将兵が荼毘に伏された場所でした。ミンダナオ島を守備していた第30師団や協力部隊の戦没者、スリガオ海峡海戦で戦死し海岸へ漂着された御遺体が火葬されました。
この慰霊碑では、例年10月24日に慰霊式典が執り行われます。
参拝の際に、通りがかった学校の先生と少し立ち話をすると、「慰霊碑の周辺は学生が掃除をして綺麗にしてあり、毎年式典が行われる事も知っている。無くなった方々の祈念碑であるから勿論悪さをする者もいないし、私たちは将兵の魂にリスペクトをしている。是非他の日本人にもスリガオへ来て欲しい。」と仰っていました。
碑文
日本将兵火葬の地
第二次世界大戦(1941-1945)中、フィリピンに侵攻した日本帝国陸軍は、スリガオに第30師団歩兵第41連隊第3大隊(大隊長近藤泰彦少佐を配置した。師団長両角業作 中将麾下の第30師団は、軍司令官鈴木宗作麾下のセブ駐留第35軍隷下にあってミンダナオ地域唯一の正規編成師団であった。鈴木中将は1945年4月半ば、ミンダナオへの転進途上戦死した。
第3大隊本部は、現在国立北スリガオ高校が立つこの地にあった。第二次大戦中、戦死した多くの日本陸軍及び海軍将兵がここで荼毘に付された。火葬場のような施設があるわけではなく、野天で焼かれた。当時師団第4野戦病院に所属し戦後生還した平野久氏によれば、この地は他にもいくつかある戦死者火葬の地の一つである。
同じく平岡氏によると、当初遺体はスリガオ共同墓地近くの丘の上で火葬されたが、スリガオのゲリラ抵抗勢力の襲撃を恐れて大隊本部近くに移されたという。1945年1月大隊主力がカガヤン・デ・オロに撤退(次いで5月、最後の戦いの場となる南アグサン州ロレト町ワロエに向かう)するまで、戦死した将兵は、その時々の可能な手段で主として夜間この地に運ばれ、荼毘に付された。
1944年10月20日の連合軍のレイテ島タクロバンーパロードラグ上陸に先立つ9月9日、ウィリアム・F・ハルゼー大将麾下のアメリカ海軍第38機動部隊は、スリガオを波状的に空襲した。当時スリガオの「裸足のゲリラ」であったラム・マクセイの証言によると、グラマン戦闘爆撃機約50機が飛来・空襲・港湾を破壊し、停泊中の日本帝国陸軍所属船舶、大小発動機艇、機帆船多数を沈めた。また、第3大隊本部にも損害を与えた。マクセイはまた、この空襲のののちに生まれて初めて日本人死者を見たと語っている(2003年8月26日付け「サン・スター・ダバオ」紙ペン・O・テシオルナによるラム・マクセイの会見記事から)。公共建物だけでなく、個人の住宅も住人が追い出され日本軍に占領されていたため、空襲の目標となった。そのためスリガオ市街の半分が焼かれた。
日本帝国陸軍は、ダバオ、サンボアンガ、カガヤン・デ・オロ、デル・モンテとともに、スリガオ港をミンダナオ島各方面への戦闘部隊上陸拠点とした。南ミンダナオのサランガニに配置された歩兵第74連隊もこの地からカガヤン・デ・オロを通過していった。また、荷上げ・停泊港として、1944年5月20日上陸の船舶工兵第19連隊など戦闘支援協力部隊、同年6月22日上陸の輜重兵第30連隊など第30師団戦闘支援業務部隊、同年5月25日上陸の第4野戦病院、同年6月21日上陸の第2野戦病院などの衛生部隊も利用した。第4野戦病院は本部をスリガオ港に近接する入江近くに置き、スリガオ公園に面したスリガオ・ローマ・カトリック教会を負傷兵の手術、治療に使用した。
スリガオはまさに、第30師団隷下部隊の各方面展開のための通過港として使用された。第30師団各部隊と協力部隊は、1944年5月20日、25日及びその後一連の上陸後の展開にあたって、当初ミンダナオ島東海岸に向かった。しかし、同年8月、目的地はミンダナオ北海岸に変更され、次にまた南方へと変更されたため、9月9日、アメリカ海軍第38機動部隊による空襲当日はスリガオで再展開の途上にあった。
港と近くの砂洲に部隊が集結し、軍需物資が集積されている状況下で、歩兵第77連隊は、船舶工兵第19連隊、第4野戦病院とともに被害を受けた。歩兵第74連隊所属各大隊はすでにスリガオを発ち、9月7日カガヤン・デ・オロに到着していたが、アメリカ機動部隊は9月9日同市をも空襲した。第77連隊は、空襲による被害にもかかわらず、所属第2大隊をレイテ戦線増援に送り、1大隊をミンダナオ島中央部マライバライに配置した。
その後同年10月24日から25日にかけれの歴史的スリガオ海峡海戦の間、日本海軍は多数の死者を出した。複数のスリガオ住民は、深夜から明け方にかけて300から500体の陸海軍将兵の遺体がここで焼かれたと証言している。さらに第3大隊は、スリガオ・アグサン地区のゲリラ抵抗勢力と以下の遭遇線を行った。9月17日南スリガオ州タンダグにおいて、12月16日北アグサン州ブエナビスタにおいて。12月15日北スリガオ州ブラセル街バダスにおいて。また、翌1945年2月3日から3月1日にかけて、南スリガオ州ヒナツアン町ポート・ラモンと北スリガオ州ブツアン市アンバヨンの間で、14回の小戦闘があった。4月9日、「裸足のゲリラ」ラム・マクセイの所属するリチャード・バートン中尉麾下の連隊戦闘中隊の兵300がスリガオに残留した第3大隊監視隊を攻撃した。さらに1944年10月20日頃から1945年初頭まで、強力なゲリラ勢力がブツアン駐屯の1中隊を包囲攻撃した。同中隊の将兵は長期の包囲戦に耐えた。
おびただしい日本陸軍及び海軍の将兵が、第二次大戦中この地で焼かれた。マクセイの証言によると、第3大隊は戦場においても戦死者を焼いた。1944年後半のある時、マクセイは、第3大隊がギガキット町ドヤンガン山近くのバラン十字路付近で、ニッパヤシの空き家に20人を超える遺体を入れて焼いたのを目撃した。同大隊第9中隊は、スリガオと南スリガオ州カンティランとの間に展開しており、そこでの遭遇戦での戦死者と思われる。1945年春から夏への戦況の悪化に伴い、レイテからスリガオに渡った部隊を含め日本軍がワロエに配送した際は、倒れた将兵はその地に埋められるか、ただ捨ておかれた。
この碑は、ミンダナオ島のこの地で戦いに倒れた日本陸軍及び海軍の将兵を追悼し、これら戦死者が安らかに眠り記憶に留められることを祈って建立される。これら将兵は、日本のために戦って倒れ、この地で焼かれた。
これら将兵は、第35軍第30師団隷下全部隊と協力部隊に所属した。その多くは、すでにその名を記した第30師団各戦闘部隊に加え、捜索第30連隊、野砲兵第30連隊、通信隊、輜重兵第30連隊、兵器勤務隊、病馬廠及び協力部隊である船舶工兵第19連隊に所属する9月9日空襲による戦死者である。さらに連合艦隊の第1遊撃部隊のうち西村祥治中将麾下の第3部隊(旗艦戦艦山城、戦艦扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦朝雲、満潮、時雨、山雲)、志摩清英中将麾下の第2遊撃部隊(旗艦重巡洋艦那智、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦曙、霞、不知火、潮)に所属する将兵であった。
スリガオ海峡海戦の間、幾百もの第1遊撃部隊西村艦隊将兵の遺体がスリガオ海峡に漂着した。この海戦は戦力互角の両艦隊によるものではなく、戦力において圧倒的に勝るアメリカ海軍による殲滅戦であった。おとり役の西村艦隊の司令官西村中将は、スリガオ海峡で待ち伏せしたアメリカ海軍により、旗艦戦艦山城もろとも海峡の海底の藻屑と消えた最高位の戦没者である。第2遊撃部隊の志摩艦隊は、ジェシー・B・オルデンドルフ少将指揮するアメリカ艦隊のわなに陥らず、さしたる光線もすることなくマニラに帰還、最低限の犠牲に留まった。
我々はここに、再び戦争が起こることがないようにと、フィリピンと日本、両国間の恒久の平和を祈る。また、平等と相互の信頼と尊厳に基づいた両国間の和解、講和、協力、対談、友情の促進のために常日頃そして永久に献身する。この碑建立は、国民相互の草の根レベルの友情を示すものとして、公式の外交ルートでない国民と国民の関係、市民の責務として着手された。2006年8月19日から23日まで、日本学術振興会研究助成事業「千年持続学の確立」プロジェクト研究会(人文・社会科学侵攻プロジェクト研究事業)、筑波大学、スリガオ・ヘリテージ・センターの共催により当地で開催された「文化価値と持続可能に関するスリガオ国際会議」の成果の一つである。碑文の性格を期すため資料を提供し詳細な調査を行った多くの人々に友情をこめて感謝する。
慰霊碑情報
建立者:スリガオ・ヘリテージ・センター
建立日:2006年10月25日
所在:スリガオ市国立北スリガオ高校内
(Surigao del Norte National School)
座標:9°47’09.2″N 125°29’36.7″E
訪問手段
スリガオ市内から徒歩もしくはトライシクルにて、北スリガオ高校へ向かう。校舎が道路両側にあり、慰霊碑の建立されているのは道路北側(カーブの内側)敷地内。写真はの校門を入りすぐ前方にある(写真は東方を向き撮影)。
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